この2人の名前を聞くと、「Thriller(スリラー)」や「Billie Jean(ビリー・ジーン)」、「Beat It(ビート・イット)」など、世界中で知られるマイケル・ジャクソンの名曲を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
クインシーによれば、マイケルは当時、Epic Recordsとの契約のもとでソロアルバムを制作する予定があり、プロデューサーを紹介してもらえないかと尋ねたそうです。
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マイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズの出会い
映画『The Wiz』
「クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンは、いつ、どこで出会ったの?」
マイケル・ジャクソンの音楽を知っていくと、そんな疑問を持つ人も多いのではないでしょうか。
実は、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンが初めて顔を合わせたのは、1978年の映画『The Wiz(ウィズ)』よりも前でした。
クインシー本人によると、マイケルが12歳くらいの頃、サミー・デイヴィス・ジュニアの家で初めて会った そうです。
ただし、二人が本当の意味でつながり始めたのは、その数年後。
映画『The Wiz』で一緒に仕事をしたことが、二人の関係を大きく変えることになります。
そして、この出会いが後の『Off the Wall』『Thriller』『Bad』へと続く、マイケル・ジャクソンの音楽史に残る共同作業の始まりでした。
2-1. 二人が初めて出会ったのはマイケルが12歳の頃
クインシー・ジョーンズは、1987年のインタビューでマイケルとの最初の出会いについて語っています。
それによると、二人が初めて会ったのは、マイケルが12歳くらいの頃 。
場所は、俳優・歌手として知られるサミー・デイヴィス・ジュニアの自宅 でした。
ただ、この時点ではまだ二人が一緒に作品を作る関係ではありません。
クインシーはすでにジャクソン5やマイケルの活躍を知っていましたが、後に自分がマイケルのアルバムをプロデュースすることになるとは、この時には考えていなかったと振り返っています。
出典:1987年 クインシー・ジョーンズ/マイケル・ジャクソン インタビュー
インタビュー全文(Michael Jackson 1987)
つまり、
「12歳のマイケルとクインシーが初めて会った」
ことと、
「二人が音楽的なパートナーとしてつながった」
ことは、別の出来事なんです。
二人の関係が大きく動き出すのは、ここからさらに数年後でした。
2-2. 二人を本格的につないだ映画『The Wiz』
1978年、マイケル・ジャクソンは映画『The Wiz』に出演することになります。
『The Wiz』は、ブロードウェイ・ミュージカルを映画化した作品で、『オズの魔法使い』をアフリカ系アメリカ人のキャストによって描いた作品です。
マイケルが演じたのは、かかし(Scarecrow) 。
そして、この作品の音楽監督を務めたのがクインシー・ジョーンズでした。
ここで二人は、初めて本格的に同じ作品を作る立場になります。
クインシーは後に、「『The Wiz』でマイケルを間近で見るようになって、レコードから受けていた印象とは違う、彼の別の一面を知った」と振り返っています。
出典:Library of Congress/Quincy Jones Interview
クインシー・ジョーンズ本人インタビュー(Library of Congress)
そして、クインシーが特に驚いたのが、マイケルの仕事への向き合い方 でした。
2-3. クインシーが驚いた「マイケルの仕事への姿勢」
当時のマイケルは、すでにジャクソン5として大スターになっていました。
それにもかかわらず、『The Wiz』の現場でクインシーが目にしたマイケルは、決して「スターだから」と手を抜くような人物ではありませんでした。
クインシーによると、マイケルは朝早くから現場に入り、役のセリフだけではなく、出演者全員の歌やセリフ、ダンスまで覚えていた そうです。
さらに、かかし役のメイクには毎日長時間かかっていました。
クインシーは後年、マイケルについて、
「これほど集中している人を見たことがない」
という趣旨の言葉で、その仕事ぶりを振り返っています。
出典:Library of Congress/Quincy Jones Interview
クインシー・ジョーンズ本人インタビュー(Library of Congress)
1984年の『Billboard』のインタビューでも、クインシーは『The Wiz』の現場でマイケルが他の出演者より何時間も早く来て、セリフや歌、ダンスをすべて把握していたことを語っています。
そして、そんな姿を見ているうちに、クインシーは、
「この若者には、何かもっとある」
と感じるようになったのです。
出典:Billboard 1984年7月21日号
「An Interview With Producer Quincy Jones」(Billboard)
2-4. マイケルのほうから「プロデューサーを探して」と相談していた
さらに興味深いのが、二人の関係が始まるきっかけを作ったのが、マイケル側からの相談だったことです。
『The Wiz』の仕事をしている頃、マイケルはクインシーに、
「自分のソロアルバムのプロデューサーを探すのを手伝ってほしい」
と相談しました。
マイケルは、Epic Recordsからソロアルバムを出す予定があり、そのためのプロデューサーを探していたのです。
これはクインシー本人が、Library of Congressのインタビューで明確に語っています。
「彼が最初のソロレコードのプロデューサーを探すのを手伝ってほしいと言った」
という趣旨の証言をしています。
出典:Library of Congress/Quincy Jones Interview
クインシー・ジョーンズ本人インタビュー(Library of Congress)
つまり、最初からクインシーが「マイケルをプロデュースしたい」と押しかけたわけではありません。
マイケルがクインシーを信頼して、プロデューサーについて相談した。
そこからクインシーの中でも、少しずつ考えが変わっていきました。
2-5. 「ソクラテス」の発音事件
ここで登場するのが、有名な「ソクラテス事件」 です。
『The Wiz』のリハーサルで、マイケルはかかし役として、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの名前を口にする場面がありました。
ところが、マイケルはその名前を、
「ソークレイツ」
のように発音していたのです。
これはマイケルにとって、単純な知識不足というより、文字では知っていても、その名前を実際に声に出したことがなかった ことが理由だったようです。
マイケル自身も後に自伝『Moonwalk』で、この場面について書いています。
マイケルはソクラテスという名前を読んだことはあったものの、発音したことがなかったため、綴りから発音を想像していた、と説明しています。
そして、リハーサル中にその発音を聞いたクインシーが、マイケルに正しい発音をそっと教えました。
出典:マイケル・ジャクソン『Moonwalk』
この出来事はクインシー側からも何度も語られています。
クインシーによると、マイケルが何度か同じ発音をしていたため、
「このままでは癖になってしまう」
と思い、マイケルを脇に呼んで正しい発音を教えたそうです。
するとマイケルは、
「Really?」
と驚いたような反応を見せました。
出典:NPR/Fresh Air・Quincy Jonesインタビュー
Quincy Jones: The Man Behind The Music(Fresh Air)
2-6. なぜ「ソクラテス」がプロデュースの決断につながったのか?
ここが、このエピソードで一番誤解されやすいところです。
「マイケルの発音をクインシーが直した。それだけでプロデュースすることを決めた」
という話ではありません。
実際には、そこに至るまでの積み重ねがあった のです。
クインシーは『The Wiz』の現場で、すでにマイケルをずっと見ていました。
朝早くから現場に入り、長時間のメイク。
自分のセリフだけではなく、他の出演者のセリフまで覚えている。
歌もダンスも徹底的に覚えている。
そして、すでにスターだったにもかかわらず、仕事に対して非常に真剣だった。
クインシーは、そうした姿を見ながら、「この青年には、まだ音楽的に表現されていないものがある」 と感じるようになっていました。
そして、ちょうどマイケル本人から「プロデューサーを探してほしい」と相談を受けていた。
そんな状況の中で起きたのが、「ソクラテス」の一件だったのです。
クインシーが見たのは、単なる発音ミスではありません。
間違いを指摘されたマイケルが、
「Really?」
と、まるで本当に知らなかったかのように驚いた。
クインシーは、その反応から、マイケルの素直さや純粋さ、そして自分がまだ知らない世界を吸収していく余地 を感じたのだと考えられます。
実際、クインシーは後のインタビューで、ソクラテスの発音を教えたときのマイケルの表情が、自分の決断につながったと説明しています。
『TIME』に掲載されたクインシーの回想でも、マイケルのその反応を見た瞬間に、
「彼のアルバムをプロデュースしてみたい」
と思ったと語っています。
クインシー・ジョーンズの回想(TIME)
つまり、「ソクラテス」はきっかけというより、最後の一押し だったと考えると分かりやすいでしょう。
それまでにクインシーが見てきたマイケルの才能、集中力、仕事への姿勢。
そして、マイケル自身からのプロデューサー探しの相談。
そこにソクラテスの一件が重なった。
その瞬間、クインシーの中で、
「この人のアルバムを、自分がプロデュースしてみたい」
という思いが具体的な決断になったのです。
2-7. クインシーがプロデュースを申し出るも、Epic Recordsは反対
しかし、話はここで簡単には進みませんでした。
クインシーがマイケルのアルバムをプロデュースしたいと考えていることを知ったEpic Records側は、最初から歓迎したわけではありません。
TIMEのインタビューでクインシーは、レコード会社から、
「Quincy is too jazzy(クインシーはジャズ寄りすぎる)」
という反応があったと振り返っています。
当時のクインシーは、ジャズをはじめとする幅広い音楽ジャンルで実績を積んでいた人物。
一方、マイケルはポップスターとしてすでに成功していました。
そのため、
「そんなクインシーにマイケルのアルバムを任せて大丈夫なのか?」
という懸念があったのでしょう。
ところが、マイケルはそこで引き下がりませんでした。
クインシーによれば、マイケルとマネージャーたちはレコード会社側と話し合い、最終的にクインシーがプロデュースすることになりました。
クインシー・ジョーンズの回想(TIME)
そして二人は、最初の共同アルバムとなる『Off the Wall』の制作へ進んでいきます。
2-8. 『The Wiz』での出会いが『Off the Wall』につながった
こうして振り返ると、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの関係は、一つの出来事だけで始まったわけではありません。
12歳の頃の出会い。
↓
『The Wiz』での再会。
↓
マイケルの仕事への姿勢をクインシーが間近で見る。
↓
マイケルがクインシーにプロデューサー探しを相談。
↓
「ソクラテス」の発音をきっかけに、クインシーがマイケルの可能性をさらに強く感じる。
↓
クインシー自身がプロデュースを申し出る。
↓
『Off the Wall』の制作へ。
この流れが、二人の音楽史を理解するうえで非常に重要です。
そして、ここから二人は、ただ「プロデューサーと歌手」という関係では説明できないほどの作品を作っていくことになります。
次の章では、そんな二人が最初に作ったアルバム、『Off the Wall』 について詳しく見ていきます。
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンが作った『Off the Wall』
Off The Wall
『The Wiz』での出会いをきっかけに、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンは、いよいよ一緒にアルバムを作ることになります。
その最初の作品が、1979年8月10日に発売された『Off the Wall』 です。
このアルバムは、マイケル・ジャクソンのソロキャリアを語るうえで、絶対に外せない作品です。
なぜなら『Off the Wall』は、後の『Thriller』へとつながる「大人のソロアーティスト、マイケル・ジャクソン」の出発点 になったアルバムだからです。
そして、この作品ではクインシー・ジョーンズが単に曲を選んでマイケルに歌わせたわけではありません。
マイケル自身の作曲、ポール・マッカートニーやスティーヴィー・ワンダーとのコラボレーション、そしてクインシーのプロデュースが組み合わさり、それまでのマイケルとは違う音楽を作り上げていきました。 (Grammy )
3-1. 『Off the Wall』はマイケルにとってどんなアルバムだった?
『Off the Wall』は、1979年8月10日に発売されました。
マイケルにとっては、ジャクソン5時代の「少年スター」というイメージから大きく変化し、ソロアーティストとしての実力を世界に示した作品 です。
当時のマイケルはまだ20歳。
すでにジャクソン5のリードボーカルとして世界的な成功を収めていましたが、ソロアーティストとしては、まだ「マイケル・ジャクソン=世界的スーパースター」というところまでは到達していませんでした。
その状況を大きく変えたのが『Off the Wall』でした。
グラミー賞の公式サイトも、このアルバムをマイケルのソロキャリアにおける大きな転換点として紹介しています。 (Grammy )
出典:The Recording Academy(GRAMMY.com) Michael Jackson’s『Off The Wall』について(GRAMMY.com)
3-2. クインシー・ジョーンズは『Off the Wall』で何をしたのか?
ここで知っておきたいのが、プロデューサーの仕事 です。
「クインシー・ジョーンズが『Off the Wall』を作った」と聞くと、マイケルの代わりに曲を書いたように感じるかもしれません。
しかし、そうではありません。
『Off the Wall』では、マイケル自身も作詞・作曲に参加しています。
たとえば、アルバムを代表する大ヒット曲、
「Don't Stop 'Til You Get Enough」
はマイケル自身が作詞・作曲した曲です。
マイケル・ジャクソン公式サイトでも、この曲について「Written & Composed by Michael Jackson」、そして「Produced by Quincy Jones」と記載されています。 (YouTube )
つまり、
マイケル=アーティストとして曲を作り、歌い、表現する
クインシー=その才能を一つの作品としてまとめ上げる
という関係だったと考えると分かりやすいでしょう。
もちろん実際の制作現場はもっと複雑ですが、この役割の違いを知っておくと、二人の関係がより理解しやすくなります。
3-3. 「Don't Stop 'Til You Get Enough」がマイケルの転機に
『Off the Wall』から最初のシングルとして発売されたのが、
「Don't Stop 'Til You Get Enough」
です。
この曲はマイケルにとって非常に重要な意味を持っています。
なんと、ソロアーティストとして初めて全米Billboard Hot 100で1位を獲得。
さらに、この曲によってマイケルは初のグラミー賞 を受賞しました。
1980年の第22回グラミー賞で、Best R&B Vocal Performance, Maleを受賞しています。 (Grammy )
マイケルにとっては、
「ジャクソン5のマイケル」から「ソロアーティストとしてのマイケル」へ
大きく踏み出した瞬間だったのです。
そして、この曲にはもう一つ興味深いエピソードがあります。
マイケルは後に、クインシーが自分を信頼して、スタジオで一人で歌うことを後押ししてくれたことに感謝しています。
つまりクインシーは、マイケルの才能を自分が代わりに表現するのではなく、マイケル自身にもっと自由に表現させようとしていた のです。 (YouTube )
3-4. 「Rock with You」も大ヒット
『Off the Wall』には、もう一つ大きなヒット曲があります。
それが、
「Rock with You」
です。
この曲も全米Billboard Hot 100で1位を獲得しました。 (SME )
「Don't Stop 'Til You Get Enough」がファンキーで躍動感のある楽曲だったのに対して、「Rock with You」はより滑らかで、ロマンティックな雰囲気を持っています。
この2曲だけを聴いても、
マイケルには一つのジャンルだけでは収まらない表現力がある
ことが分かります。
そしてクインシーは、そうしたマイケルの幅広い魅力を一つのアルバムの中に共存させていきました。
3-5. ポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダーも参加
『Off the Wall』が面白いのは、クインシーだけではありません。
アルバムには、音楽界を代表するアーティストたちも参加しています。
その中でも特に有名なのが、
ポール・マッカートニー
と
スティーヴィー・ワンダー
です。
ポール・マッカートニーは「Girlfriend」を提供。
スティーヴィー・ワンダーは「I Can't Help It」を提供しています。
このような一流アーティストとのコラボレーションも、『Off the Wall』の大きな魅力です。
GRAMMY.comも、『Off the Wall』について、マイケル自身の作曲やポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダーとのコラボレーションなど、複数の音楽的要素を組み合わせた作品だったと紹介しています。 (Grammy )
出典:The Recording Academy(GRAMMY.com) Michael Jackson’s『Off The Wall』の解説
3-6. 『Off the Wall』は「4曲連続Top 10」という記録も
『Off the Wall』のすごさは、単に1曲だけがヒットしたことではありません。
このアルバムからは、
という4曲がBillboard Hot 100のTop 10に入りました。
GRAMMY.comによると、これは当時、ソロアーティストのアルバムから4曲がBillboard Hot 100のTop 10に入った初めてのケース でした。 (Grammy )
日本のソニーミュージックも、『Off the Wall』について、この4曲が連続してBillboard Hot 100のTop 10に入ったことを紹介しています。 (SME )
出典:ソニーミュージック 『オフ・ザ・ウォール』について(ソニーミュージック)
これはかなり重要なポイントです。
なぜなら、『Off the Wall』は「Don't Stop 'Til You Get Enoughだけがヒットしたアルバム」ではないからです。
アルバム全体から次々とヒット曲が生まれた。
だからこそ、マイケルが一発屋的な存在ではなく、アルバム単位で作品を作れるソロアーティスト として認められていったのです。
3-7. クインシーとマイケルは、すでに『Thriller』の土台を作っていた?
ここで、『Off the Wall』と『Thriller』の関係も見えてきます。
『Thriller』は1982年に発売され、マイケルの代表作として知られています。
しかし、いきなり『Thriller』が生まれたわけではありません。
クインシー・ジョーンズ自身も、後のLibrary of Congressのインタビューで、
『Off the Wall』によって、マイケルはそれまでの「ティーン向けポップ」の世界を越え、80年代の音楽シーンの頂点へ足を踏み入れた
という趣旨の評価をしています。 (The Library of Congress )
つまり、『Off the Wall』は『Thriller』の前段階というだけではありません。
『Thriller』が生まれるために必要だった、マイケルとクインシーの最初の共同作業だった のです。
クインシーにとっても、マイケルがどんな声を持ち、どんな音楽を好み、どこまで表現できるのかを知る重要な作品になりました。
そしてマイケル自身も、このアルバムを通して、ソロアーティストとして自分がどこまでできるのかを証明していきました。
3-8. 『Off the Wall』で見えてきた「マイケル×クインシー」の強さ
ここまで見てくると、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンがなぜ強力なコンビになったのか、少しずつ見えてきます。
マイケルには、すでにジャクソン5時代から培ってきた歌唱力とパフォーマンス能力がありました。
さらに、自分自身で曲を書く力も持っていました。
一方のクインシーには、長年にわたってさまざまなジャンルの音楽に携わってきた経験があります。
その二人が組み合わさったことで、
「マイケルがやりたいこと」
と
「クインシーが持っている音楽的な経験」
が一つの作品にまとまっていきました。
そして、その結果として生まれたのが『Off the Wall』でした。
このアルバムは、マイケルにとって大きな成功をもたらしただけではありません。
「この二人なら、もっとすごい作品を作れる」
という可能性を示したアルバムでもあったのです。
そして、その「もっとすごい作品」が、3年後に世界を変えることになります。
そう。
『Thriller』です。
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンが『Thriller』を生み出した方法
Thriller
『Off the Wall』で大きな成功を収めたマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズ。
二人はそこで終わりませんでした。
次に取り組んだのが、1982年11月30日に発売されたアルバム『Thriller』 です。
現在では「マイケル・ジャクソンといえば『Thriller』」と思う人も多いでしょう。
実際、アメリカ議会図書館(Library of Congress)は『Thriller』について、マイケル・ジャクソンのポップセンス、優れたミュージシャンたちの演奏、そしてクインシー・ジョーンズのプロデュースが組み合わさった作品であり、音楽業界やその後のポピュラー音楽に大きな影響を与えたアルバムだと評価しています。 (The Library of Congress )
では、この歴史的なアルバムは、一体どのように作られたのでしょうか?
4-1. 『Thriller』は『Off the Wall』の次に作られたアルバム
『Thriller』は、マイケル・ジャクソンにとってクインシー・ジョーンズとの2枚目の共同アルバム でした。
前作『Off the Wall』では、
などがヒット。
マイケルはすでに、ソロアーティストとして大きな成功を手にしていました。
だからこそ、『Thriller』の制作には大きなプレッシャーがあったはずです。
「前作を超える作品を作らなければならない」
そんな状況の中で、マイケルとクインシーは再びスタジオに入ります。
そして完成したのが、
『Thriller』
でした。
公式サイトに掲載されている収録曲は、
Wanna Be Startin' Somethin'
Baby Be Mine
The Girl Is Mine
Thriller
Beat It
Billie Jean
Human Nature
P.Y.T. (Pretty Young Thing)
The Lady in My Life
の9曲です。 (MichaelJackson.com )
出典:Michael Jackson Official Site Michael Jackson公式サイト『Thriller』
4-2. マイケルは『Thriller』で何を目指していた?
『Thriller』の特徴は、アルバム全体を聴くと、曲ごとにかなり雰囲気が違うことです。
「Wanna Be Startin' Somethin'」のようなファンキーな曲。
「The Girl Is Mine」のようなポップソング。
「Beat It」のようなロック色の強い曲。
「Billie Jean」のような独特のグルーヴを持つ曲。
そして「Thriller」のようなホラー映画を思わせる作品。
一つのジャンルにまとめることができません。
これは偶然ではありません。
クインシー・ジョーンズは、さまざまな音楽ジャンルの要素を取り入れながら、マイケルの持っているポップな感覚を一つの作品にまとめていきました。
Library of Congressも、『Thriller』にはディスコの影響を持つ「Billie Jean」、ロック色の強い「Beat It」、そしてタイトル曲「Thriller」など、異なる音楽的要素が含まれていることを紹介しています。 (The Library of Congress )
つまり『Thriller』は、
「マイケルが一つの音楽ジャンルを極めたアルバム」
というより、
「さまざまな音楽をマイケル・ジャクソンという一人のアーティストの作品として成立させたアルバム」
だったと言えます。
4-3. 「Billie Jean」は徹底的に作り込まれた
『Thriller』の中でも特に有名なのが「Billie Jean」です。
この曲のレコーディングには、マイケルの尋常ではないこだわりが残っています。
『Thriller』のエンジニアを務めたブルース・スウェディン は、後に「Billie Jean」の制作について語っています。
なんと、マイケルはボーカルを何度も録音していました。
そして、最終的にアルバムに採用されたボーカルは、91テイクの中から選ばれたテイク2 だったとスウェディンは証言しています。 (Grammy )
91回も録音して、最終的に使ったのが2テイク目。
これだけ聞くと、
「じゃあ、最初から2テイク目でよかったのでは?」
と思ってしまいますよね。
でも、ここにマイケルの制作姿勢が表れています。
「最高のものを選ぶために、そこまで試す」
ということです。
スウェディンはマイケルについて、彼が非常に完璧主義で、ボーカルを何度も録音していたと振り返っています。 (Grammy )
出典:The Recording Academy(GRAMMY.com)
GRAMMY.com「Michael Jackson's GRAMMY Night 'Thriller': 30 Years Later」
4-4. クインシーが「もう一度聴こう」と止めたことも
「Billie Jean」の制作では、クインシー自身のプロデューサーとしての判断も興味深いものがあります。
ブルース・スウェディンによると、ミックス作業は非常に細かく行われ、何度も調整が繰り返されました。
そして、クインシー・ジョーンズがスタジオに入ってきたとき、かなり後のミックスを聴くのではなく、初期のミックスまで戻って聴いてみよう と提案したそうです。
そこで最初のほうのミックスを聴き直したところ、スウェディンは「これが圧倒的に良かった」と振り返っています。 (Grammy )
ここが、クインシー・ジョーンズのプロデューサーとしての面白いところです。
ただ「もっと音を足そう」「もっと派手にしよう」と考えるのではなく、
「一度、最初の状態に戻ってみよう」
という判断をしている。
音楽制作では、何かを加えることだけが正解ではありません。
時には、
「やりすぎていないか?」
と立ち止まることも重要です。
そして、その判断が「Billie Jean」という世界的な楽曲の完成度を高めることにつながりました。
4-5. 「Beat It」にはエディ・ヴァン・ヘイレンが参加
『Thriller』を語るときに絶対に外せないのが、「Beat It」です。
この曲はマイケルが作詞・作曲した楽曲です。
そして、そこに強烈なギターを加えたのが、当時すでに世界的なギタリストだったエディ・ヴァン・ヘイレン でした。
Library of Congressも、『Thriller』について「Beat It」におけるエディ・ヴァン・ヘイレンのギター演奏を特筆しています。 (The Library of Congress )
つまり「Beat It」は、単純なポップソングではありません。
マイケルの歌とダンス。
ポップミュージック。
そしてハードロックを代表するギタリストのサウンド。
普通なら、かなり大胆な組み合わせです。
しかし、それを一つの曲として成立させてしまった。
これも『Thriller』の大きな特徴です。
4-6. 「The Girl Is Mine」ではポール・マッカートニーと共演
さらに、『Thriller』にはポール・マッカートニーも参加しています。
「The Girl Is Mine」でマイケルとデュエットしたのです。
ポール・マッカートニーといえば、元ビートルズのメンバー。
つまりマイケルは、『Thriller』で、
ポップス界のレジェンド
と共演しています。
Library of Congressも、『Thriller』についてポール・マッカートニーが「The Girl Is Mine」に参加したことを紹介しています。 (The Library of Congress )
実は、これは『Off the Wall』から続く流れでもあります。
『Off the Wall』ではポールが「Girlfriend」を提供していました。
そして『Thriller』では、二人が実際に歌うことになります。
4-7. 「Human Nature」はマイケルが書いた曲ではない
『Thriller』には、マイケル自身が作った曲だけではありません。
私も、記事を書くうえで調べた際に知って驚きました。
その代表が「Human Nature」です。
この曲を書いたのは、当時TOTOのメンバーとしても知られていたスティーヴ・ポーカロ と、作詞家のジョン・ベティス です。
Library of Congressの『Thriller』資料でも、「Human Nature」の作曲者としてSteve PorcaroとJohn Bettisが記載されています。 (The Library of Congress )
一方で、アルバムにはマイケル自身が作曲した曲もあります。
たとえば、
などです。 (The Library of Congress )
ここからも分かるのは、
『Thriller』は「マイケルが全部自分で曲を書くアルバム」でも、「クインシーが曲を用意してマイケルが歌うだけのアルバム」でもなかった
ということです。
さまざまなソングライターから曲を集め、その中からマイケルに合うものを選び、そこへマイケル自身の楽曲も加えて、一枚のアルバムとして完成させていった。
その全体をまとめたのがクインシー・ジョーンズでした。
4-8. クインシー・ジョーンズのプロデュースは「引き算」も重要だった
『Thriller』の制作で面白いのが、最終的に何を入れるかだけではなく、何を入れないかも重要だった という点です。
クインシーは2008年のGRAMMY Living Historiesのインタビューで、当時のレコード制作には収録時間という物理的な制約があり、LPの片面を長くしすぎると音質面で不利になるため、アルバムの長さを慎重に考えていたと説明しています。 (Grammy )
現在はストリーミングで何時間でも音楽を聴けます。
でも1982年当時は、レコードという物理的な媒体に音楽を収める必要がありました。
だからこそ、
「この曲を入れたい」
だけではなく、
「アルバム全体としてどう聴こえるか?」
まで考える必要がありました。
この視点も、クインシーのプロデューサーとしての重要な仕事だったのです。
4-9. マイケルの完璧主義とクインシーの判断力
ここまで見てくると、『Thriller』がなぜ特別な作品になったのかが少し見えてきます。
マイケルは、とにかく細部までこだわる。
何度もボーカルを録音する。
自分の曲だけでなく、他人が作った曲にも深く関わる。
そして、クインシーはその才能を一歩引いたところから見ながら、
「何を残すか」
「何を削るか」
「どんなミュージシャンを組み合わせるか」
「アルバム全体をどうまとめるか」
を判断していく。
つまり、
マイケルの完璧主義 × クインシーのプロデュース能力
が、非常にうまくかみ合っていたのです。
もちろん、二人だけで『Thriller』を作ったわけではありません。
ブルース・スウェディンをはじめとするエンジニア、ソングライター、ミュージシャンなど、多くの人たちの力があって完成した作品です。
だからこそ、『Thriller』は単純に「マイケルとクインシーだけの作品」と考えるより、
マイケルを中心に、クインシーが世界トップクラスの音楽家たちをまとめ上げた巨大な制作チームによる作品
と考えたほうが、その凄さが分かります。
4-10. 『Thriller』は音楽だけでなく、映像の時代も変えた
そして、『Thriller』が歴史的な作品になった理由は、音楽だけではありません。
「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」などの映像作品によって、マイケルはミュージックビデオそのものの存在感も大きく変えていきました。
特にジョン・ランディス監督による「Thriller」のショートフィルムは、それまでの単純な楽曲プロモーションとは異なる、映画のような作品として大きな反響を呼びました。
Library of Congressも『Thriller』がその後のポピュラー音楽だけでなく、レコード産業にも大きな影響を与えたと評価しています。 (The Library of Congress )
つまり『Thriller』は、
音楽だけで世界を変えたアルバムではありません。
音楽、ダンス、映像、ファッション、パフォーマンス。
それらを一つに結びつけたことで、マイケル・ジャクソンというアーティストそのものの価値を大きく押し上げた作品だったのです。
4-11. クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの最高傑作へ
『Thriller』は1982年11月30日に発売されました。
その後、このアルバムは世界的な大成功を収め、1984年のグラミー賞では8部門を受賞 。
現在も音楽史上最も重要なアルバムの一つとして評価されています。 (Michael Jackson ANZ )
そして2007年には、アメリカ議会図書館のNational Recording Registry(全米録音資料登録簿)にも登録されました。 (The Library of Congress )
前作『Off the Wall』で、マイケルとクインシーは「この二人ならすごいものを作れる」ということを証明しました。
そして『Thriller』では、その可能性をさらに押し広げたのです。
ただ、ここで忘れてはいけないことがあります。
『Thriller』の成功は、クインシーだけの功績でもありません。
マイケルだけの功績でもありません。
マイケル自身の才能。
クインシーのプロデュース。
ブルース・スウェディンらエンジニアの技術。
ソングライターたちの楽曲。
そして参加した数多くのミュージシャン。
そのすべてが重なって、『Thriller』という作品が生まれました。
だからこそ、このアルバムは今でも特別なのかもしれません。
ここで、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンが『Thriller』で行ったことをまとめると、
『Off the Wall』に続く2枚目の共同アルバムだった
マイケル自身の作曲と外部ソングライターの楽曲を組み合わせた
「Beat It」ではエディ・ヴァン・ヘイレンを起用
「The Girl Is Mine」ではポール・マッカートニーと共演
マイケルはボーカルを何度も録音するほど制作にこだわった
クインシーは音楽全体をまとめるプロデューサーとして機能した
ブルース・スウェディンら、優れたスタッフやミュージシャンも作品を支えた
音楽だけでなく映像やパフォーマンスにも大きな影響を与えた
そして、この『Thriller』の成功によって、「マイケル・ジャクソン×クインシー・ジョーンズ」という組み合わせは、音楽史を代表する黄金コンビとして知られるようになっていきます。
『Thriller』の次に何を目指した?クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの『Bad』
Bad
『Off the Wall』。
そして『Thriller』。
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンは、2枚のアルバムで世界的な成功を収めました。
特に『Thriller』は、音楽史そのものを変えるほどの大ヒット。
普通なら、
「これ以上、何を作ればいいんだろう?」
と思ってしまいそうです。
ところが、マイケルはここで止まりませんでした。
1987年8月31日。
『Thriller』から約5年ぶりとなるアルバム、『Bad』 を発売します。
そして、この『Bad』が、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンにとって3枚目にして最後の共同アルバム となりました。
Michael Jackson公式サイト|『Bad』
では、なぜ『Bad』は『Thriller』とは少し違う作品になったのでしょうか?
その答えを知るうえで、クインシー自身の言葉が非常に重要です。
5-1. 『Bad』は『Thriller』の約5年後に発売された
『Bad』が発売されたのは、1987年8月31日。
前作『Thriller』の発売は1982年11月30日ですから、実に約5年の間が空いています。
この5年間に、マイケルの人生は大きく変化しました。
『Thriller』によって世界最大級のスターになっただけではありません。
音楽業界における立場も、それまでとはまったく違うものになっていました。
そして、そんな状況で制作されたのが『Bad』でした。
ソニーミュージックも、『Bad』について「『Thriller』に続く待望の新作」と紹介しています。さらに、マイケルにとってEpic Recordsから発売した3枚目のソロ・スタジオ・アルバムだったことも確認できます。 (Sony Music Japan )
5-2. クインシーは「マイケル自身がもっと曲を書くべき」と考えた
ここが、『Bad』を理解するうえで非常に重要なポイントです。
『Thriller』では、
など、マイケル自身が作った曲が大きな成功を収めました。
そこでクインシー・ジョーンズは、『Bad』について、あることをマイケルに提案します。
それは、
「今回は、もっと自分自身で曲を書いてみたらどうか」
という方向性でした。
クインシーは後のインタビューで、『Bad』制作について、
「彼がすべての曲を書く、非常に正直なアルバムを作る時期だと思った」
という趣旨の説明をしています。 (Michael Mania Forum )
つまり、『Bad』ではマイケル自身のソングライティングを、これまで以上に前面に出そうとしたのです。
これは非常に興味深い変化です。
5-3. 『Bad』では11曲中9曲をマイケルが手がけた
そして実際に、『Bad』では11曲中9曲をマイケル自身が手がけています。
ソニーミュージックも、
マイケルは11曲中9曲を自ら手がけ、クインシー・ジョーンズとともにアルバム全体のプロデュースも担当した
と説明しています。 (Sony Music Japan )
これは『Bad』を考えるうえで非常に大切です。
つまり、
クインシーがマイケルのために曲を集めてくる
という形から、
マイケル自身が大量の曲を書き、その中から作品を作り上げていく
という方向へ、より大きく変化したわけです。
しかもマイケルは、単に歌うだけではありません。
アルバム全体のプロデュースにも関わっています。
ここから、マイケルが「歌手」からさらに一歩進んで、自分の作品を自分で作り上げるアーティスト になっていたことが分かります。
5-4. 「Man in the Mirror」はマイケルが書いた曲ではない
ここで、少し意外な曲があります。
『Bad』を代表する名曲、
「Man in the Mirror」
です。
この曲はマイケル自身が作詞・作曲した曲ではありません。
作詞を担当したのはサイーダ・ギャレット(Siedah Garrett) 。
作曲はグレン・バラード(Glen Ballard) です。
実は、この曲が『Bad』に入るまでにも、クインシー・ジョーンズが深く関わっています。
クインシーはソングライターたちを集めて、
「自分自身をより良い人間に変えていくような、国際的なアンセムを書いてほしい」
という趣旨の曲を求めました。
そこで生まれたのが「Man in the Mirror」でした。
つまり、『Bad』ではマイケル自身の曲を中心にしながらも、
「この曲はマイケル自身が書いたものではないけれど、アルバムに必要だ」
とクインシーが判断した曲も入っています。
ここにも、プロデューサーとしてのクインシーの役割が見えてきます。
5-5. クインシーが「Man in the Mirror」を評価した理由
クインシーは後のインタビューで、「Man in the Mirror」について、
「あれはうまくいった」
という趣旨の評価をしています。
そして、『Bad』からは5曲もの全米ナンバーワン・シングルが生まれました。
その5曲とは、
です。
ソニーミュージックも、『Bad』が5作連続でBillboard Hot 100の1位シングルを送り出した ことを記録として紹介しています。 (Sony Music Japan )
この記録は、当時としては非常に大きなものでした。
そして面白いのは、その中に「Man in the Mirror」が入っていること。
つまり、
マイケル自身が書いた曲だけでなく、他のソングライターが作った曲も、マイケルの代表曲になった のです。
5-6. 『Bad』には「自分自身と向き合う」テーマが多い
『Bad』というタイトルを見ると、
「悪いマイケル?」
「不良っぽいアルバム?」
と思うかもしれません。
でも、実際のアルバムを聴いていくと、それだけではありません。
「Man in the Mirror」では、自分自身を変えること。
「Leave Me Alone」では、メディアや世間からの干渉。
「Dirty Diana」では、誘惑や人間関係。
「Smooth Criminal」では、犯罪や暴力。
「They Don't Care About Us」は後の作品ですが、マイケルの作品には社会や人間の問題を扱うものも増えていきます。
つまり『Bad』は、単純に「ワイルドなマイケル」を見せるアルバムではありません。
むしろ、
世界的スターになったマイケルが、自分を取り巻く社会や人間関係について、より直接的に表現するようになったアルバム
とも見ることができます。
5-7. 『Bad』は音楽的にもさらに幅を広げた
『Bad』には、
など、さまざまな要素が入っています。
そして、それぞれの曲でマイケルの歌い方や表現も変わります。
たとえば「Bad」は攻撃的。
「The Way You Make Me Feel」はファンキー。
「Man in the Mirror」は壮大でメッセージ性が強い。
「Liberian Girl」は幻想的。
「Smooth Criminal」は緊張感があります。
一枚のアルバムなのに、かなり表情が違います。
これは『Thriller』から続いている特徴でもあります。
クインシーは、マイケルを一つのジャンルに閉じ込めませんでした。
そしてマイケル自身も、
「自分はこういう音楽しかできない」
とは考えなかったのでしょう。
だからこそ、『Bad』でもさまざまな音楽的アプローチが試されています。
5-8. 『Bad』は『Thriller』を超えられたのか?
ここで、多くの人が気になることがあります。
「『Bad』は『Thriller』を超えたの?」
という疑問です。
数字だけを見れば、『Thriller』の世界的な記録には及びません。
しかし、『Bad』は決して「『Thriller』に負けたアルバム」ではありません。
むしろ、別の意味で非常に大きな成功を収めました。
イギリスのOfficial Chartsによると、『Bad』は1987年9月に全英アルバムチャート1位を獲得し、5週間その座を維持しました。 (オフィシャルチャート )
そして、アメリカでは5曲のナンバーワン・シングルを生み出しました。
これは当時のマイケルにしかできないような、とてつもない記録でした。 (Sony Music Japan )
だから、
『Thriller』=世界的な音楽史を変えたアルバム
に対して、
『Bad』=マイケル自身のアーティスト性をさらに強く打ち出したアルバム
と考えると、その違いが分かりやすいと思います。
5-9. 「Bad」はプリンスとのデュエットになる予定だった
そして『Bad』には、もう一つ有名なエピソードがあります。
それが、
「Bad」をプリンスとのデュエットにする計画
です。
実は「Bad」は、当初マイケルとプリンスが一緒に歌う構想がありました。
Official Chartsも、この曲がプリンスとのデュエットとして予定されていたものの、スケジュールの都合で二人が一緒にレコーディングすることは実現しなかったと紹介しています。 (オフィシャルチャート )
もし実現していたら……。
マイケル・ジャクソンとプリンス。
1980年代を代表する二人のスターが「Bad」で共演していたことになります。
これは音楽史に残る、とんでもないコラボレーションになっていたでしょうね。
5-10. 『Bad』は5曲連続で全米1位になった
そして『Bad』の凄さを語るなら、やはりこの記録は外せません。
アルバムから発売されたシングルのうち、
5曲がBillboard Hot 100で1位を獲得しました。
「I Just Can't Stop Loving You」
「Bad」
「The Way You Make Me Feel」
「Man in the Mirror」
「Dirty Diana」
これは当時の記録でした。
ソニーミュージックによると、この記録はその後25年間破られませんでした。 (Sony Music Japan )
つまり『Bad』は、
「『Thriller』の次だから売れた」
だけではありません。
アルバムそのものに、次々とヒット曲を生み出す力があったのです。
5-11. そして『Bad』が二人の最後の共同アルバムになった
ここは、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの関係を考えるうえで、とても重要です。
『Off the Wall』
↓
『Thriller』
↓
『Bad』
この3枚が、二人が共同で作ったアルバムです。
そして『Bad』が、二人にとって最後の共同スタジオ・アルバム になりました。
その後、マイケルはクインシーと離れ、1991年の『Dangerous』ではテディ・ライリーらと制作することになります。
つまり、『Bad』は単なるヒットアルバムではありません。
マイケルとクインシーの黄金時代を締めくくる作品
でもあったのです。
5-12. 『Off the Wall』→『Thriller』→『Bad』で何が変わった?
ここまで3枚を並べると、二人の関係の変化がかなり見えてきます。
『Off the Wall』
マイケルがソロアーティストとして大きく飛躍。
↓
『Thriller』
マイケルとクインシーが世界最高峰の音楽作品を作り上げる。
↓
『Bad』
マイケル自身のソングライティングとアーティスト性がさらに前面に出る。
こう見ると、『Bad』は『Thriller』の単なる続編ではありません。
マイケル自身がより大きな役割を担うようになった作品 なのです。
クインシーも、マイケルの才能をただ引き出すだけではなく、マイケル自身が作った楽曲をどうアルバムとして成立させるかを考える立場になっていました。
だからこそ、『Bad』は二人の共同作業の集大成とも言えます。
5-13. クインシー・ジョーンズがマイケルに残したもの
『Off the Wall』から『Bad』まで。
この3枚を追っていくと、クインシー・ジョーンズがマイケル・ジャクソンに与えた影響が少しずつ見えてきます。
もちろん、マイケルはクインシーと出会う前からすでに才能のある歌手でした。
ジャクソン5時代から世界的スターだったのです。
だから、
「クインシーがマイケルをスターにした」
と表現するのは正確ではありません。
むしろ、
すでに巨大な才能を持っていたマイケルとクインシーが出会い、その才能を3枚のアルバムでさらに大きな形へと発展させていった
と考えるほうが自然でしょう。
そして『Bad』では、マイケル自身が11曲中9曲を手がけ、クインシーとともにアルバム全体のプロデュースにも関わっています。 (Sony Music Japan )
これは、マイケル自身の成長を示す大きな変化だったのではないでしょうか。
5-14. 3枚のアルバムを作ったからこそ見える二人の関係
『Off the Wall』では、
「マイケルをソロスターとしてどう見せるか」
が重要でした。
『Thriller』では、
「マイケルの可能性をどこまで広げられるか」
が重要になりました。
そして『Bad』では、
「マイケル自身が何を表現したいのか」
がより強く前面に出てきました。
だから私は、この3枚を続けて聴くと面白いと思います。
単純に「どのアルバムが一番好き?」だけではなく、
マイケルがどんどん“自分で作品を作る人”になっていく過程
を見ることができるからです。
そして、その過程には常にクインシー・ジョーンズがいました。
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの『Bad』を見ていくと、こんなことが分かります。
『Bad』は1987年8月31日に発売
『Thriller』から約5年後のアルバム
クインシーとの3枚目、そして最後の共同アルバム
マイケルは11曲中9曲を手がけた
クインシーはマイケル自身のソングライティングをさらに重視した
「Man in the Mirror」はマイケル作曲ではないが、クインシーが求めたテーマから生まれた
「Bad」は当初プリンスとのデュエット構想があった
『Bad』から5曲の全米ナンバーワン・シングルが生まれた
『Bad』は『Thriller』の単なる二番煎じではなく、マイケル自身のアーティスト性がより強く表れた作品だった
そして、この『Bad』を最後に、マイケルとクインシーの黄金コンビは一区切りを迎えます。
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クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの関係が終わった理由
QuinceJones&MichaelJackson
『Off the Wall』。
『Thriller』。
『Bad』。
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンは、この3枚のアルバムを一緒に作りました。
そして、その3枚はマイケルのキャリアを代表する作品になりました。
ところが、1987年の『Bad』を最後に、クインシーはマイケルのアルバムをプロデュースしていません。
1991年の『Dangerous』では、プロデューサーがクインシーからテディ・ライリーらへと変わっています。
では、いったい二人の間に何があったのでしょうか?
「ケンカしたの?」
「仲が悪くなったの?」
「クインシーがマイケルを見放したの?」
実は、これは一言では説明できません。
しかも、「二人が不仲になったから終わった」とだけ書いてしまうと、かなり大事な部分を見落としてしまいます。
今回は、クインシー本人の発言や、テディ・ライリーの証言などをもとに、二人が『Bad』を最後に別々の制作環境へ進んでいった理由を見ていきます。
6-1. 『Bad』は二人にとって最後の共同アルバムだった
まず事実関係を整理しておきましょう。
クインシー・ジョーンズがプロデュースしたマイケル・ジャクソンのアルバムは、
『Off the Wall』(1979)
『Thriller』(1982)
『Bad』(1987)
の3作品です。
この3枚は、クインシーとマイケルの代表的な共同作品として知られています。
『Thriller』については、アメリカ議会図書館もクインシーのプロデュースとマイケルの才能、そして多くのミュージシャンによる演奏が組み合わさった作品として評価しています。 (The Library of Congress )
そして『Bad』を最後に、クインシーはマイケルの次のアルバム『Dangerous』には参加していません。
ここから二人の制作関係が変わります。
6-2. 『Dangerous』ではテディ・ライリーが中心になった
1991年に発売された『Dangerous』で、マイケルが新たに組んだ重要人物の一人が、テディ・ライリー でした。
テディ・ライリーは、80年代後半から90年代初頭にかけて発展した「ニュー・ジャック・スウィング」を代表するプロデューサーです。
そして『Dangerous』では、
「Jam」
「Remember the Time」
「In the Closet」
「Dangerous」
など、テディ・ライリーが関わった楽曲がアルバムの重要な部分を占めています。
テディ自身も、クインシーの後を継ぐことが大きなプレッシャーだったと後に語っています。
そして、ここで非常に興味深い証言があります。
テディ・ライリーによれば、制作中の『Dangerous』をマイケルはクインシー本人にも聴かせていた そうです。
つまり、
「クインシーとは完全に縁を切ったから、一切関わらせなかった」
というような単純な話ではありません。
むしろマイケルは、クインシーの意見を聞くこともあったのです。
テディ・ライリーは、クインシーについて「マイケルにとって品質管理者のような存在だった」と説明しています。そしてクインシーは完成前の『Dangerous』を聴き、「masterpiece(傑作)」と評価したとテディは証言しています。 (MusicRadar )
これ、かなり重要ですよね。
『Dangerous』でクインシーがプロデューサーではなくなったことと、マイケルがクインシーを完全に必要としなくなったことは、同じではない のです。
6-3. では、なぜクインシーは『Dangerous』をプロデュースしなかったの?
ここが一番気になるところです。
クインシー本人は、2010年の『The Guardian』のインタビューで、かなり率直に当時のことを語っています。
クインシーによれば、彼はマイケルをヒップホップの方向へ進ませようとしていた そうです。
しかしマイケルは、それに対して、
「Quincy doesn't understand the business any more. He doesn't know that rap is dead.」
という趣旨の反応をしたと、クインシー自身が振り返っています。 (ガーディアン )
つまり、二人の間には、
「これからマイケルは、どんな音楽に進むべきなのか?」
という考え方の違いが生じていた ことが分かります。
クインシーはヒップホップを取り入れようとしていた。
一方、マイケルはクインシーの考える方向とは違う、新しい音を求めていた。
これが、『Dangerous』で制作陣が変わった背景の一つだったと考えられます。
6-4. 「クインシーは時代遅れだった」と単純に考えていいの?
ここは注意が必要です。
クインシー本人の発言だけを見ると、マイケルがクインシーについて「もうこのビジネスを理解していない」という趣旨の発言をしたことが分かります。
しかし、これをそのまま、
「クインシーは本当に時代遅れだった」
と解釈するのは違います。
むしろクインシーは、マイケルにヒップホップを取り入れることを提案していました。
そして、その後『Dangerous』でテディ・ライリーが取り入れたのも、まさに当時の新しいブラック・ミュージックの流れでした。
つまり、クインシーが「新しい音楽を嫌っていた」というわけではありません。
問題だったのは、
「新しい音楽をどうマイケルの作品に取り入れるのか」
という方向性だったのではないでしょうか。
6-5. マイケルは『Dangerous』で「新しい時代の音」を求めていた
『Dangerous』を聴くと、その変化はかなりはっきり分かります。
『Thriller』や『Bad』とは違う。
ドラムの音。
ベース。
シンセサイザー。
リズム。
そしてニュー・ジャック・スウィングの影響。
テディ・ライリー自身も、クインシー時代の音をそのまま再現するのではなく、自分のスタイルとクインシーのスタイルを組み合わせたと語っています。
さらに、
「We didn't want to sound like another Thriller.」
という趣旨の発言もしています。
つまり制作側も、
「もう一度『Thriller』を作る」のではなく、「別のものを作る」
ことを意識していたのです。 (soulandfunkmusic.com )
これは『Dangerous』を理解するうえで、とても重要です。
6-6. クインシー自身も「マイケルにクビにされた」と語っている
一方で、クインシー本人は後年、かなりストレートな表現もしています。
2010年の『The Guardian』のインタビューでは、
「Then Michael fired me」
と語っています。
日本語にすると、
「それからマイケルが私をクビにした」
という意味です。 (ガーディアン )
これだけを見ると、
「やっぱりケンカ別れだったんじゃないの?」
と思いますよね。
ただ、クインシーは同じインタビューの中で、二人は最後まで友人だった とも話しています。
さらに、マイケルが亡くなる前にロンドン公演のチケットを大量に売り上げた際、マイケルから電話があったことも語っています。
つまり、
仕事上の関係は終わったけれど、二人の人間関係まで完全に壊れたわけではなかった
と考えるのが自然です。 (ガーディアン )
6-7. 「クインシーが自分の功績を取りすぎた」とマイケル側が感じていた?
もう一つ、後年の資料で出てくる重要な話があります。
クインシーとマイケルが別々の道を歩むようになった理由として、
マイケルの周囲が、クインシーが作品への功績を取りすぎていると感じていた
という説明です。
『Q』でクインシー自身が語った内容を紹介したRolling Stoneの記事でも、この点が触れられています。記事では、クインシーがマイケルとの関係が終わった背景について、周囲の人間がクインシーに過大な功績が与えられていると考えていた、と説明しています。 (Rolling Stone Australia )
また、2017年の『Los Angeles Times』のインタビューでも、クインシーは二人が『Bad』の後に決裂した背景について、マイケルが彼を「old and out-of-touch(古く、時代についていけない)」と感じていたと話しています。 (Los Angeles Times )
ただし、ここは「マイケル本人がこう言った」と断定しないほうがいい部分 です。
後年のクインシーの回想や第三者による説明が混ざっているからです。
そのため、
「マイケルがクインシーを嫌いになった」
と断定するより、
二人の間では、音楽の方向性や制作上の主導権について考え方の違いが生じていた
と表現するほうが、より事実に忠実です。
6-8. 実は『Dangerous』でもクインシーの影響は消えていない
ここが個人的には一番面白いところです。
クインシーが『Dangerous』をプロデュースしていない。
だからといって、
『Dangerous』からクインシーの影響が完全に消えたわけではありません。
テディ・ライリー自身が、クインシーを非常に尊敬していました。
インタビューでは、
「I want to be like Quincy Jones.」
という趣旨の発言までしています。
さらに、テディはクインシーのスタイルをそのままコピーするのではなく、自分のスタイルとクインシーのスタイルを頭の中で組み合わせたと説明しています。 (soulandfunkmusic.com )
つまり、
クインシーからテディへ完全にバトンタッチした
というより、
クインシーが築いたものを土台にしながら、新しい世代のサウンドを加えた
と考えるほうが近いのです。
6-9. そしてクインシーは『Dangerous』を認めていた
これも非常に面白い事実です。
もしクインシーとマイケルが完全な敵対関係になっていたのなら、
「自分が関わっていないアルバムなんて知らない」
となっても不思議ではありません。
ところが、テディ・ライリーの証言によると、クインシーは完成前の『Dangerous』を聴いて、
「masterpiece」
と評価したそうです。
そして、
「ready to come out」
つまり「もう発売できる」と言ったとされています。 (MusicRadar )
これはかなり大きいですよね。
自分がプロデュースしていない。
しかも、自分の後を引き継ぐ若いプロデューサーが作った作品。
それでもクインシーは、その作品を認めていた。
少なくともテディ・ライリーの証言からは、そんな二人の関係が見えてきます。
6-10. マイケルはクインシーを完全に切り捨てたわけではなかった
さらに、テディ・ライリーの証言にはもう一つ興味深い部分があります。
テディによると、マイケルは制作が長引く中で、クインシーに『Dangerous』を聴かせていたそうです。
つまりマイケルは、
「もうクインシーとは関係ないから、意見も聞かない」
という状態ではありませんでした。
むしろ、長年一緒に作品を作ってきたクインシーの耳を、ある意味で最終チェックのように利用していた のです。 (MusicRadar )
これを考えると、二人の関係はかなり複雑です。
仕事としては別れた。
でも、
「この人なら自分の音楽をどう聴くのか?」
という信頼は残っていた。
そんな関係だった可能性があります。
6-11. では、二人は「不仲」だったのか?
ここまでの内容をまとめると、私は、
「二人は不仲になったから別れた」
と一言で説明するのは少し違う気がします。
確かに、
マイケルとクインシーの音楽的な方向性に違いが出てきた
マイケルは新しいプロデューサーを求めた
クインシー自身も「マイケルが自分をクビにした」と表現している
クインシー側には、マイケルや周囲との間に考え方の違いがあった
という事実はあります。 (ガーディアン )
でも同時に、
マイケルは『Dangerous』をクインシーに聴かせていた
クインシーは完成前の『Dangerous』を高く評価したとテディが証言している
クインシーは後年もマイケルとの関係を語っている
クインシー自身が二人は最後まで友人だったと話している
という事実もあります。 (MusicRadar )
だから、
「仕事上のパートナー関係は終わった。でも、二人の人間としての関係まで完全に消えたわけではなかった」
と考えるのが、あらゆる資料から見える姿に一番近いのではないでしょうか。
6-12. なぜマイケルは新しいプロデューサーを必要としたのか?
そして、もう一つ忘れてはいけないのが、時代そのものが変わっていた ことです。
『Off the Wall』が発売されたのは1979年。
『Thriller』が1982年。
『Bad』が1987年。
そして『Dangerous』は1991年。
約12年の間に、音楽業界は大きく変化しました。
ヒップホップがさらに大きな存在になり、ニュー・ジャック・スウィングのような新しいサウンドも登場しました。
テディ・ライリーは、まさにその新しい時代を代表するプロデューサーでした。
だからマイケルが、
「次は新しい人と、新しい音を作ってみたい」
と考えること自体は、決して不自然ではありません。
実際、『Dangerous』はクインシー時代とは違うサウンドを持っています。
そして、それはマイケルが「過去の成功をそのまま繰り返す」のではなく、次の時代へ進もうとしていた証拠 とも言えるでしょう。
6-13. クインシーとの別れは、マイケルにとって「自立」でもあった
私はここが、この二人の関係を考えるうえで一番重要だと思います。
クインシーとマイケルの3枚は、あまりにも偉大でした。
だからこそ、
「クインシーがいなければマイケルは成功できなかった」
と思われることがあります。
でも、実際のマイケルは『Bad』の時点ですでに、自分で大量の曲を書き、制作にも深く関わっていました。
そして『Dangerous』では、クインシーなしで新しいサウンドを作り、大ヒットさせています。
つまり、
クインシーとの共同制作を終えたことは、マイケルにとって「クインシーから離れる」だけではなく、「自分自身の力で次の時代を作る」という意味も持っていた
のではないでしょうか。
6-14. 二人の関係を「終わり」だけで見るのはもったいない
『Bad』を最後に、クインシーとマイケルは同じアルバムを作らなくなりました。
でも、
『Off the Wall』
『Thriller』
『Bad』
という3枚が残りました。
そして、その後の『Dangerous』を作ったテディ・ライリーでさえ、クインシーの影響を意識していました。 (soulandfunkmusic.com )
さらにクインシー自身も、完成前の『Dangerous』を聴いて高く評価したとされています。 (MusicRadar )
そう考えると、
クインシーからマイケルへの影響
だけではなく、
クインシーが築いた音楽的な土台を、マイケルがさらに別の方向へ発展させていった
とも言えます。
二人の共同制作は終わりました。
でも、その影響まで終わったわけではなかったのです。
6-15. 二人の関係は「ケンカ別れ」ではなく、それぞれの次のステージへ進んだ
ここまでの内容を整理すると、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンが『Bad』を最後に一緒にアルバムを作らなくなった背景には、複数の要素があったと考えられます。
① マイケルが新しいサウンドを求めた
『Dangerous』ではテディ・ライリーをはじめとする新しい世代のプロデューサーを起用しました。
② 音楽的な方向性に違いが生まれた
クインシーはヒップホップを取り入れることを考えていましたが、マイケルとの間には、その方向性について考え方の違いがありました。 (ガーディアン )
③ マイケル自身が制作の中心になっていた
『Bad』の時点で、マイケルは自分で多くの曲を書き、アルバム制作にも深く関わっていました。
④ それでも二人の関係が完全に壊れたわけではない
『Dangerous』をクインシーに聴かせていたというテディ・ライリーの証言や、クインシーが完成前の作品を高く評価したという話があります。 (MusicRadar )
そして何より、クインシー自身が後年、
「Michael fired me」
と表現しながらも、二人は最後まで友人だったと語っています。 (ガーディアン )
だから私は、この二人の関係を、
「クインシーとマイケルは仲違いして終わった」
とだけ説明するより、
「3枚のアルバムを通して最高の音楽を作り上げた二人が、それぞれの音楽的な次のステージへ進んでいった」
と捉えるほうが、ずっと実像に近いと思います。
そして何より興味深いのは、クインシーと別れた後のマイケルがどうなったのかということ。
『Dangerous』ではテディ・ライリーという新しい才能と組み、「Jam」「Remember the Time」「In the Closet」 など、それまでとは違うサウンドを生み出しました。
つまりマイケルは、クインシーとの成功を「再現」するのではなく、それを土台にして、新しいマイケルを作ろうとした のです。
二人の関係から分かるマイケル・ジャクソンの凄さ
QuinceJones&MichaelJackson
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソン。
二人が一緒に仕事をした期間は、決してマイケルのキャリア全体から見れば長いものではありません。
それでも、
『Off the Wall』 『Thriller』 『Bad』
という3枚のアルバムを残しました。
そして、この3枚はマイケルのキャリアを語るうえで欠かせない作品になっています。
では、なぜこの二人の組み合わせは、これほどまでに特別だったのでしょうか。
ここからは、二人の出会いや作品、そして関係の変化を見てきたからこそ分かる、マイケル・ジャクソンというアーティストの凄さ を改めて考えてみたいと思います。
7-1. 世界的なプロデューサーと組んでも「マイケルらしさ」を失わなかった
クインシー・ジョーンズは、マイケルよりもはるかに長い音楽キャリアを持つプロデューサーでした。
ジャズから映画音楽、R&B、ポップスまで幅広い音楽を経験してきた人物です。
そんなクインシーと組んだことで、マイケルはさまざまな音楽的要素を吸収していきました。
しかし、重要なのは、
クインシーの音楽にマイケルが合わせたわけではない
ということです。
『Off the Wall』でも『Thriller』でも『Bad』でも、そこにあるのは間違いなくマイケル・ジャクソンの音楽です。
クインシーの豊富な経験を取り入れながらも、最終的にはマイケル自身の個性が作品の中心にあります。
これは、アーティストとして非常に重要なことではないでしょうか。
誰かから影響を受ける。
でも、自分自身を失わない。
むしろ、
他人の才能を吸収することで、自分の表現をさらに大きくしていく。
マイケルには、そんな柔軟さがあったのだと思います。
7-2. マイケルは「歌う人」ではなく、自分の作品を作る人だった
マイケルというと、どうしても歌やダンスのイメージが強いですよね。
でも、ここまで3枚のアルバムを見てくると、それだけでは説明できないことが分かります。
マイケルは自分で曲を書き、メロディーを考え、歌い、そして作品全体について意見を出していました。
たとえば『Thriller』では、
「Billie Jean」
「Beat It」
「Wanna Be Startin' Somethin'」
など、マイケル自身が作曲に関わった楽曲が収録されています。
つまりマイケルは、完成した曲を渡されて歌うだけの存在ではありませんでした。
自分自身で音楽を生み出す側だった。
ここが非常に大きなポイントです。
しかも、それを世界最高峰のプロデューサーであるクインシーと一緒に行っていた。
クインシーが持っている知識や経験を利用しながら、自分のアイデアを作品にしていく。
その姿勢こそ、マイケルが単なる「スター」ではなく、アーティストだった ことを示していると思います。
7-3. 「もっと売れる曲」ではなく「もっと良い作品」を追求した
マイケルの凄さを考えるとき、もう一つ見逃せないのが、作品に対するこだわり です。
『Thriller』は結果的に世界的な大ヒットになりました。
しかし、最初から「世界一売れるアルバムを作ろう」と考えていたから成功した、と単純に説明することはできません。
むしろ制作現場では、
「この音でいいのか?」
「この歌い方でいいのか?」
「もっと良くできないか?」
という細かな部分を突き詰めています。
エンジニアのブルース・スウェディンが、マイケルのレコーディングへの徹底した姿勢を語っていることからも、それが分かります。
つまりマイケルにとって重要だったのは、
売れることだけではなく、自分が納得できる作品を作ること。
その積み重ねが、結果として世界的な成功につながっていったのではないでしょうか。
7-4. 常識にとらわれず「音楽の見せ方」まで変えた
マイケルの凄さは、音楽そのものだけではありません。
音楽をどう見せるか
という部分まで変えてしまいました。
その象徴が『Thriller』のショートフィルムです。
当時、ミュージックビデオは現在ほど「作品」として扱われていたわけではありません。
そこにマイケルは、映画のようなストーリーとダンス、衣装、演出を組み合わせました。
「曲を宣伝する映像」ではなく、
一つの楽曲を、一つのエンターテインメント作品にしてしまった。
これもマイケルの大きな功績です。
そして、その発想は後の音楽業界にも大きな影響を与えました。
7-5. クインシーと組んだからこそ「自分の才能の使い方」を広げられた
ここで改めてクインシーとの関係に戻ります。
マイケルには、もともと素晴らしい歌唱力やダンス能力がありました。
しかし、それだけでは『Thriller』のような作品にはなりません。
クインシーには、
楽曲を見極める経験
ミュージシャンをまとめる力
アレンジやサウンドへの知識
アルバム全体を一つの作品として考える視点
がありました。
マイケルには、
歌
ダンス
作曲
パフォーマンス
独自のアイデア
強烈な探究心
がありました。
この二人が組んだことで、それぞれの才能がさらに引き出されました。
だからこそ、この関係から見えてくるマイケルの凄さは、
「一人ですべてをやった」ということではありません。
むしろ、
自分にはない才能を持つ人と組み、その力を吸収しながら、自分自身の作品に昇華できたこと。
そこにあるのだと思います。
7-6. クインシーと別れた後もマイケルは進化し続けた
二人の関係を考えるうえで、もう一つ重要なのが『Bad』の後です。
クインシーとの共同制作は『Bad』まででした。
その後、マイケルは新しいプロデューサーたちとともに『Dangerous』『HIStory』『Invincible』などの作品を作っていきます。
ここから分かるのは、
マイケルにとってクインシーは「いなければ何もできない存在」ではなかった
ということです。
もちろん、クインシーがマイケルの音楽キャリアに与えた影響は非常に大きかったでしょう。
しかし、マイケルはクインシーとの3作品を完成させた後、自分自身の音楽をさらに別の方向へ進化させていきました。
これは、ある意味でクインシーとの共同制作が、マイケルにとって一つの大きな成長の過程だったとも考えられます。
7-7. 「クインシーが凄かった」だけでは説明できない
『Off the Wall』『Thriller』『Bad』があまりにも凄い作品だからこそ、
「クインシー・ジョーンズが優秀なプロデューサーだったから成功した」
と考えてしまうこともあるかもしれません。
もちろん、それは間違いではありません。
でも、それだけでは説明できません。
クインシー自身がマイケルの才能について、「私がこれまで見たことがないほどの才能」 と語っていることからも分かるように、マイケル自身が非常に特別なアーティストでした。
つまり、
クインシーが凄かった。
そして、
マイケルも凄かった。
その二人が同じ時代に出会い、同じ作品に向き合った。
それが『Off the Wall』『Thriller』『Bad』という歴史的な3枚につながったのではないでしょうか。
7-8. マイケル・ジャクソンの凄さは「才能の多さ」だけではない
ここまで見てくると、マイケルの凄さは単に、
「歌が上手い」
「ダンスが上手い」
「曲が作れる」
という能力の多さだけではないことが分かります。
本当に凄かったのは、
それらを一つの作品としてまとめることができたこと。
そして、
自分とは違う才能を持った人から学び、それを自分の表現へ変えていったこと。
さらに、
一度成功しても、そこで満足せず、新しい表現を追求し続けたこと。
なのではないでしょうか。
クインシー・ジョーンズとの仕事は、そのことを非常によく表しています。
7-9. クインシーとの関係から見えるマイケルの本当の凄さ
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソン。
この二人の関係を追っていくと、改めてマイケルというアーティストの凄さが見えてきます。
マイケルは、ただ才能に恵まれていただけではありません。
自分の才能を理解し、それをさらに伸ばすために、優れた人たちと仕事をした。
そして、クインシーから学んだものを吸収しながら、自分自身の音楽へと変えていった。
だからこそ、二人が作った作品は、クインシーの作品でもあり、マイケルの作品でもある。
そして何より、
「クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソン」という二人だからこそ生まれた音楽
だったのだと思います。
まとめ|クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの関係は音楽史に残る黄金コンビ
MichaelJackson&QuinceJones
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソン。
二人が一緒に音楽を作ったのは、『Off the Wall』『Thriller』『Bad』の3作品です。
けれど、この3枚を振り返るだけでは、二人の関係の本当の凄さは分からないのかもしれません。
クインシーには、長年の音楽活動で培った経験と、アーティストの才能を作品として形にする力がありました。
一方のマイケルには、自分の中にある音楽を追求し続ける才能と、常識にとらわれない発想がありました。
その二つが出会ったことで、時代を超えて聴き継がれる音楽が生まれた。
それが、この二人の関係の一番の凄さなのだと思います。
そして興味深いのは、二人の関係が終わった後も、マイケルが新しい音楽へ進み続けたことです。
クインシーはマイケルにとって、成功するために必要だった「唯一の人物」ではありませんでした。
マイケル自身が、さまざまな才能を吸収しながら、自分の音楽を作り続けていった。
だからこそ、クインシーとの3作品も「クインシーが作ったマイケルの名盤」ではなく、
クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソン、二人の才能が交わったからこそ生まれた作品
として、今も特別な存在なのではないでしょうか。
何十年経っても『Off the Wall』『Thriller』『Bad』が聴かれ続けていること。
それこそが、二人が残した音楽の凄さを何より物語っていると思います。
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